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■ ■ 茶碗について ■ ■ |
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茶碗は、亭主、お客ともに直接手に触れ、口にして、お茶を飲んできたもので、他の茶道具に比べ、より一層所持する人の愛情がこもっているものです。
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茶碗の断面図−部位の名称を記しました |
茶碗鑑賞は
「使う」場合は 1.手取りの良さ(重量・手触り・抱え心地) 2.口当たりや温度加減 3.お茶の色うつり
「観る」場合は 1.形 2.釉調 3.窯印 4.伝来 をポイントにすると良いとのことです。 |
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茶の湯の茶碗はとてもたくさんあり、窯を挙げればキリがないほど、全国のいたるところで焼かれています。 おもに、中国、朝鮮、日本のものに大別されますので、簡単にそれらの特徴を紹介します。 |
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〔 中国の茶碗 〕 |
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天目茶碗 宋代(鎌倉時代の初め)に多くの日本人禅僧が中国の浙江省・天目山に留学した際に持ち帰った抹茶の法と当時流行の建盞(けんさん)茶碗です。この建盞をやがて日本で天目山の茶碗ということで、天目茶碗というようになり、さらに玳玻盞(たいひさん)や、この形のものも日本ではそう呼ぶようになります。建盞は口べりがやや縮まり、底が厚く、高台の内側の削りが浅く、素地は鉄分が多く、黒褐色で堅く、茶碗の裾から下は釉がかからず、流れたくすりだまりが見られます。ときに窯の中で、偶然の火加減で美しい自然の模様を呈することがあり、窯変天目として非常に珍重されています。玳玻盞は建盞よりやや薄手で、内面に尾長鶏や梅花、吉祥文字を黒抜きにしてあるもの、木の葉模様を出しているものがあります。
天目茶碗についてもっともっと詳しく丁寧にまとめられ、 とっても解かりやすいので是非!→→
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青磁茶碗 |
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・砧青磁 |
南宋時代に浙江省で出来たものが最上とされた。 |
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・珠光青磁 |
南宋時代に浙江省の徳清後窯で焼いたもので、砧青磁と違い大量に出来た下手物であるが、村田珠光がこのくすんだ色に茶の美を見出し愛好したのでこう呼ばれます。 |
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・人形手 |
内側に人形の模様の押し型があるので、こう呼ばれます。枇杷色で厚手で、珠光青磁同様下手物であるが、こちらは明代のものです。 |
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・染め付け |
白磁の下にコバルトを主成分とした絵の具で模様を描いたものを日本でこう呼ぶようになりました。初期のものを古染め付けと呼び、雲と楼閣模様がある雲堂手がよく知られ、明代末から清代初期にかけての祥瑞(しょんずい)が最上の位置付けです。純白精良の磁土の素地の上に染め付けは明るく青藍色を呈し、気品に溢れています。 |
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〔 朝鮮の茶碗 〕
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象嵌青磁 |
高麗末期に南朝鮮で焼かれたもので、筒型が多く、胴の前後に丸紋の象嵌があり、釉は高台裏までかかり、厚手で、さえない色ですが、侘びた味わいが賞されています。 |
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井戸茶碗 |
茶の湯の茶碗で第一とされています。李朝の初期(室町時代前半頃)に南朝鮮で焼かれた雑器に茶人が枯淡の美を見いだし、競ってこれを賞美し、愛蔵して来たものです。 名称は室町時代に奈良の豪族井戸氏の所持したのが起こりと言われています。 中でも大井戸と呼ばれ、口径が大きく、その姿が堂々としているものが代表的なものです。 国宝の「喜左衛門井戸」「筒井筒」「細川」「有楽」などはすべて名物手に属します。 井戸茶碗のみどころは、素地は赤褐色の土の色で、枇杷色の釉が高台まで全体にかかり、やや厚手で、粗いろくろ目があり、高台は大きく高く、茶だまりには、重ね焼きの跡が見られ、高台わきや内部に「かいらぎ」といって鮫の皮状に釉がちぢれ「わきどり」といって、高台わきが削りとってあるので、高台が竹の節のような形をしてるところです。 |
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熊川 (こもがい) |
釜山の近郊、熊川(ゆうせん)の港から日本へもたらされたので、この名があります。李朝中期の窯で、素地は白めのこまかい土で、薄い枇杷色の透明の釉がかかっています。同じ系統に鬼熊川、玉子手などがあります。 |
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堅手 |
李朝白磁の系統で、手ざわりがかたいところから、この名があります。李朝の初期から中期にかけて色々とあり、古いところを古堅手、古堅手で紫色のしみのあるものを雨漏堅手と呼びます。釜山の近く、金海の窯で焼いたものを金海堅手と呼んでいます。 |
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粉引 |
表面に粉が吹いたように、白土を化粧がけしてあります。李朝初期、全羅南道の産です。 |
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三島 |
素地に、同じ小紋を型で連続に押して、こまかい白象嵌が前面にあり、模様が三島ごよみに似ているところからこう呼ばれています。 |
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はけ目 |
忠道南道、鶏龍山で焼かれたもので、三島とほぼ同年代と考えられます。 |
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斗々屋 |
堺の商人、斗々屋所持から出た呼び名といわれています。平茶碗に近いものが多く、素地の薄茶色に半透明の釉がかかり、青い火変わりの出たものが喜ばれています。 |
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伊羅保 |
素地が砂まじりで、手ざわりがいらいらとしているので、この呼び名があるといわれ、侘びた味を持っています。 |
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呉器 |
形から来た名称で、木椀の御器に似ているのでこの名があります。椀型で、高くて裾の開いた撥高台が特色です。だいたいに大降りで、姿が端正なのが特色です。室町時代に来日した朝鮮の使臣が、大徳寺を宿舎とし、帰国に際して、持参の茶碗を置いていったことから、大徳寺呉器ともいい、中でも特に上作で、小ぶりで総体に赤みのかかったものを、もみじ呉器と呼びます。 |
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御本茶碗 |
日本での需要から、お手本(切形)を朝鮮に送って釜山や、その他の窯で焼かせたものをはじめ、諸侯や、茶人の好みで焼いたものもあります。古田織部の切形によるものは、織部御本などと呼びます。 |
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その名の通り、日本で焼かれた茶碗です。 瀬戸系の美濃諸窯と、 朝鮮系の九州諸窯と 京焼系の諸窯と、 そのほかに分類できます。
中でも代表的なものだけ、下に紹介します。
(右の地図中の番号と下の番号は 対応しています。) |
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朝鮮系の九州諸窯
文禄・慶長年間の朝鮮の役は、朝鮮の陶工を多く日本へ連れてくることにもなりました。彼らは、九州や山陰地方の大名に召抱えられ、保護され定住し、焼き物を焼くようになりました。
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薩摩焼@ |
島津義弘が連れて来た陶工を、大隅の帖佐、薩摩の苗代川におき、窯を築かせて今日に至っています。最も古い作品は数が少なく、だいたい筒型で、釉が二重にかけてあり、非常に渋い趣のものです。釉は大別して、白と黒があり、白い方は後に金彩の美しい赤絵をほどこすようになりました。 |
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八代焼A |
細川忠興が、小倉城から熊本に戻ったとき、これに従った上野喜蔵親子が八代の高田に戻って焼いたもので、上野の器物に、模様を白く象嵌して焼いたものです。 |
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小代焼B |
加藤清正の連れ帰った陶工によるもので、茶碗は、黒茶色の釉で、朝顔形に開いた形のものが多いです。 |
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唐津焼C |
朝鮮の役の後、最も多くの陶工を連れ帰ったのがこの地で、名護屋城(肥前)は秀吉の根拠地でした。絵唐津、朝鮮唐津、瀬戸唐津、斑唐津、奥高麗、三島唐津などがあります。 |
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高取焼D |
黒田長政の保護のもと、朝鮮の陶工、八山親子が福岡の高取山山麓で焼きました。遠州七窯のひとつに数えられています。土がこまかく、緻密で、なめらかな釉がかけられています。 |
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上野(あがの)焼 |
唐津から細川忠興に招かた上野喜蔵が小倉城下で焼きました。唐津と非常に似ています。 |
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萩焼E |
毛利家お抱えの陶工によって萩市周辺で焼かれました。古いものは唐津のざらついた土で、江戸時代中期から、萩の土を使い独特のものになってきました。 |
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瀬戸系の美濃諸窯
朝鮮系の諸窯より古く、加藤藤四郎左衛門が中国より学んだ技法で、瀬戸の北方に窯を築きました。
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瀬戸黒F |
この美濃の地方で最初に焼かれたもので、全体に変化に乏しく、真っ黒な釉がかかっています。窯の中で白熱化したものをつまみ出して、水で急速に冷やすので、「引出し黒」とも呼ばれ、利休好みです。 |
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黄瀬戸 |
食器として焼かれたものが茶碗に見立てられました。筒型が多く、胴の部分に簡単な唐草模様を線彫りしてあり、それに胴薬と鉄薬がかけられ、利休好みです。 |
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志野焼 |
長石の粉を釉としてかけた、日本で初めての白い焼き物で、織部の好みです。鉄薬で絵を描いたものを絵志野、ねずみ色の薬に絵模様を白く出したねずみ志野や、赤志野があります。 |
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織部 |
瀬戸黒のように黒の釉が全体にかかり、胴の部分1、2二箇所、白く窓のように抜いてあり模様があるもの、緑色の薬で赤褐色の絵のあるものがあります。形は織部の好みとされる、ゆがんで形のくずれたもので、志野より少しかたい土が使われています。おもに慶長から寛永年間に焼かれました。 |
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G京焼系の諸窯
江戸初期、京都で野々村仁清によって、陶器に上絵付けを施すことが考え出され、茶の湯に適した茶碗が焼き出されました。
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仁清 |
野々村仁清は、瀬戸で焼き物の法を学び、仁和寺の門前に窯を築きました。金森宗和の指導によりあらゆる茶器を焼きました。中でも後人の追随を許さないものは、一度焼いた上に五彩を施した赤絵です。 |
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乾山 |
画家・尾形光琳の実弟・乾山が仁清に学び、楽焼風のものと、陶器のものがあり、琳派風の大まかな絵付けが特徴です。 |
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木米 |
絵付けにすぐれた腕をふるったひとりの青木木米で、煎茶趣味の者が多いです。 |
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道八 |
高橋家二代、仁阿弥道八は、仁清の写しに優れ、乾山風のものも焼いています。讃岐や紀州に招かれ、唐物や高麗の写しも焼いています。 |
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永楽 |
西村善五郎保全(永楽)は土風炉師の家柄ですが、唐物や、高麗の写しに秀でて、後に金襴手などの磁器をつくりました。文政から天保にかけての名工で、今日の永楽家の礎を築いたのはこの保全です。 |
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粟田焼 |
京都の粟田口で、おもに焼かれた任清の写しを総称して呼ばれます。 |
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朝日焼 |
京都の宇治で、古くは遠州七窯として茶入をおもに焼き、後に茶碗が焼かれました。御本茶碗を得意とし、肌は薄紅色で、砂まじりの土が多いのが特徴です。 |
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赤膚焼 |
遠州七窯のひとつで、御本茶碗の写しを多く焼きました。簡単な草花や風物の絵のものもあります。 |
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(このほか、真葛、虫明焼、淡路焼などが京焼き系に属します。) |
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その他諸窯 |
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備前焼H |
他の窯と違い釉をかけないのが特徴ですが、最近では使うのもあるようです。 |
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信楽焼I |
桃山時代の茶人の好みで、厚づくりで重厚な感じのものが焼かれました。 |
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伊賀焼 |
室町から桃山にかけて焼かれました。 |
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丹波焼 |
もとは穴窯といい、傾斜地の土をくり抜いて作られた窯です。黒っぽい土の上に、侘びた釉をかけた、粗野ながら力強いものです。多くの名作が生まれたのは江戸中期までです。 |
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楽焼茶碗J |
茶の湯の為に生まれた茶碗で、茶の湯の為に工夫され、茶の湯に最も適した茶碗であるといえます。 楽焼は朝鮮からの帰化人阿米夜(あめや)が京都で、加茂川の石や、日ノ岡の石を釉にし、聚楽土や岡崎の土を用いて、ろくろを使わず、鉄やへらで小刀で削って、手づくり式の茶碗をつくったのが始まりですが、こうしてつくったとされる阿米夜の作品は現存していません。そののち、阿米夜の妻が焼いたものが、尼焼と呼ばれています。 その子、長次郎がその技法をもとに利休に指導され、信長、秀吉などの保護を受けて焼き、今日の楽焼の基礎をつくりあげました。 長次郎は利休のとりなしで、聚楽第に窯を築き、今日に残る数々の名品を焼きあげました。それは茶の湯の侘びた気分を盛り込み、あたたかく、やわらかな味のあるもので、抹茶の色と非常によく調和しています。 利休七種としての、大黒・早船・木守・検校(けんぎょう)・臨済・東陽坊・鉢開など、名作が多く伝えられています。 長次郎の子・常慶は細工物を得意とし、香炉ぐすりに特色があります。秀吉から天下一の称号を受け、黄金の「楽」の印を拝領した後、楽焼と呼ばれるようになりました。 以後、代々字体を変えた「楽」の印を作品に用いています。 |
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(大樋焼K) |
4代目・一入の弟子、土師長左衛門は金沢に赴き、城下の大樋町に窯を築き、雨釉の茶碗を焼きました。 |
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真葛L (香山以降) |
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今戸M |
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