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「お茶のこころ」といっても未だに理解できない。茶の湯に携わっている方の本やHPでご意見を 拝見すると皆一様に仰ってるのが「最初は解からなかったことが、ある日突然気づいた」 この気持ちは解かるなぁ。 全ての事柄に当てはまる訳ではなく、「何の為にするのか、何の為に・・・?」 納得しないとしないと進まないことが多い中で、最初に解説は必要なく、まず行動、そして自分で感じ、考え、気付くということが大切なこともあるのかもしれないなーと。 昔、気付かなかった歌詞の意味を理解したような、前に観たムツカシイ映画を観直したら、やけに胸にしみたような、お稽古が進むうちに「これはこの為だったのね」と、そんな感覚と似た新しい発見が嬉しくて、とても楽しくなってきたので、もっと精進し、いい機会なので、自分なりに勉強しようかな、というのがこのHPのきっかけ。
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■ 和敬清寂 ■
お茶のこころをわかりやすく説明しようとするなら、おいしいお茶をもてなし、もてなされる道のこと、のようです。 亭主が釜をかけて客を招く、こころを尽くして客に楽しいひとときを過ごしてもらおうとし、 客の方も、一生懸命に亭主のもてなしに応える、そういう主客の間がら、いわば人と人の出会いという、 「一期一会」の考えです。また、お茶のものの考え方は禅の考え方を多分にとり入れているようです。 歴史的にみても、侘茶の祖といわれる珠光は、のちに還俗はしましたが一休和尚に師事した禅僧で、 利休の師の紹鷗は和歌をもって茶の極意を悟ったと伝えられ、やはり大林和尚に参禅しています。 そして利休も参禅30年、なお飽くことを知らないと、古渓和尚から褒められているそうです。 こうして茶道を創始し大成した人達が禅に参じて得たところのものに自分の工夫を加えて、 茶のこころと形を築きあげたのですから、お茶の考え方が禅によっているのは当然なようです。 和敬清寂の、”寂”は実際には言葉にいいあらわすのがむずかしい境地です。 ”わび”は、”わぶ”という動詞が名詞化して使われたもので、もともとは零落し、悲観し、心細く、儚く思い悩む、 不自由で満たされない状態をさします。 しかし、”わび”がその消極的な本来の意味を克服し、積極的な価値を持つ美意識をも意味するようになったのは、 禅的なものの見方が根底にあり、自由で満たされた高いこころの境地を目指したからです。 この”和敬清寂”は、茶室のしつらいにも、露地のつくりにも、道具の取り合わせにも、人と人の応対にも、 と、全ての面に具体的にあらわされるものだそうです。
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■ 表流のお点前 ■
お茶を点てるという実用の目的を果たす為、いっさいの不必要な所作を省いた合理的なお作法で、 その中には、ちょうど水が山の上から流れて海に注ぐように、一見まわりくどく見えても最も早く海に流れつくことが できるような自然の美しさと、精神的所作を含んでいます。 例えば、柄杓を左手で構え、右手で他の動作をするときに、構えた柄杓に一瞬心を集中させます。 ただの動作の連動ではなく、おいしいお茶をたてる為のひとつひとつの所作に全神経を集中させるのです。 この長い年月にわたり、あらゆる方の工夫の積み重ねを経て、洗練され、簡素化されたお点前の修練に励めば 利休の言う、
「夏はいかにも涼しきよう、冬はいかにも暖かなるように、 炭は湯のわくように、茶は服のよきように、これにて秘事すみ候」
の、ことばにあるように、精神的な問題をも解決するともいえます。 お点前を反復練習する間に、おのずから茶の心を体得するという大きな意味があるので、 お点前のはしはしに至るまで、決しておろそかになってはならないのです。 座禅は理屈ぬきで「まず座れ」と命ずるそうですが、 お茶のお点前も理屈ぬきで、まずお稽古に励むことが肝心なのです。
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