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■ 元伯宗旦 ■
ずっと気になる存在でした。以前より、ただイメージだけで「宗旦」という人について興味がありました。 この「宗旦」という人の方が利休さんより侘び数寄に終始してたんじゃないかって気がして。 唐木順三氏によると「侘び」とは対比するものがあってはじめて「侘び」というそうなので、宗旦が「侘び数寄」に 徹したという「侘び」という言葉、それ自体当てはまらず、宗旦は対比するものがある侘びではなく 「無」に徹したような気がします。 堺の豪商であった利休は、自らの富はそのままに、富あっておごらぬことに侘びを見出すのです。 ? 「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや」と思うならば、ひっそり山の中で暮らせば良いんじゃ ないの?道具の売買をたくさんしたり、信長や秀吉に寵せられ、後には対立するまでになるわけで???
宗旦については茶の湯の歴史で少し述べましたが、宗旦とは利休の孫にあたります。利休自刃のとき、彼は14歳、茶聖として世にときめいた祖父が、栄誉の座から急転直下し、悲劇的な最期を遂げたのを目の当たりにしました。武士ではなく茶人なのに利休は切腹、山上宗二は耳や鼻そぎ落とされたのです。有為転変の理を身をもって知る訳です。
利休の死後、千家を継いで不審庵第二世となったのは小庵です。小庵は利休の後妻の連れ子で、利休と先妻との間には小庵と同年の長男道安がいました。何故小庵が第二世になったのかは、別の機会にお話しするとして、この小庵は利休が罪せられるとすぐ会津の蒲生氏郷お預けの身となりました。小庵46歳のときのことです。 氏郷は利休の高弟でしたので、小庵は手厚く遇され、一年余り後には氏郷と、家康、利家の懸命なとりなしで、千家復興の許しが下りました(氏郷・家康連署の小庵召出状はお家元の新年大福茶で隔年に残月亭で軸飾りにされます)。このとき大徳寺で渇食をしていた宗旦も家に帰り、ここに千家復興の礎が築かれました。 秀吉の死後、天下は徳川家の握るところとなり、小庵の晩年は秀忠の知遇を受け千家は安泰となることが出来 ました。
■ 侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し ■
宗旦が後を継ぐようになると。彼を茶頭として召抱えようとする大名が多くなり、文字通り引く手数多になりましたが、彼はそうした誘いには頑として応じなかったそうです。どうしても断りきれなかった大名にさえ仮病を使ってドタキャンしたという文献も残っているほどです。 彼は世に乞食宗旦と評されたとおり、貧相のごとき生活を送ったそうで、宗旦の茶を支えたものは少年時代より身を打ち込んでいた禅の修行です。 禅のものの見方は、否定を突き抜けることにおいて、肯定に返って来る、「柳は緑・花は紅」というのがそれだそうですが、私は禅の修行をしたことがないし、本だってナナメ読みしかしたことがないので、禅に対する理解はウワベのもので、奥深いところはちっとも解かっていませんが、お点前をすると、どんなにブルーでなときも、元気で楽しいときも、無に入れる、ものすごい気持ち良さを味わえる瞬間が極稀にあって、なんとなくですが、そのときに宗旦を想うことはあります。 でも、お茶を美味しく点て、もてなし、もてなされる、という部分を考えれば、無に入ってしまったら自分本位で相手(お客)のことを考えていないことになりそうで駄目なのかな?いや、無になって点てたほうが美味しいお茶が点てられるのかな?と疑問は一生消えなそうです。 先生は座禅修行に行ってみたそうですが、「なんだかよくわかんなかったわねー。」と仰っていました。さらに先生は禅についての本もたくさん読まれたそうだし、禅の講座に勉強しにも行かれたそうですが、「やっぱりムツカシイわよ」と仰ってました。先生はきっと心では理解してるんじゃないかなぁ?そんなの説明することじゃないんですよね。きっと。 少年時代より禅の修行に励んでいた宗旦でさえ、若い頃は否定的なものの見方をしていたのが、年齢を重ねるに遵い融通無碍の自由を得たといわれていますが、そういうのだって宗旦本人の発言ではないのでしょうし。
そんなことを考えながら今週のお稽古から帰って来て本屋さんに立ち寄ると、茶道のコーナーではない新刊の場所に、「宗旦狐」なる本が積んであるではありませんか!これを運命といわずなんと言うのでしょう?! 私と同じように宗旦への思慕の念にかられた人がいるのかしら?と思いながら、まだ頁を捲らずにいます。 今日、この部分を書き上げてから読みにかかろうと思いますので。 さて、何が書いてあることでしょう。(2003.07.26)
裏千家・淡交誌に連載されていた短編集で、宗旦狐はその中のひとつで、宗旦を題材にしたつくり話だった…。 がぁ〜ん…。とはいえ、このお話はお茶では有名らしく(知らなかったけど)、京都の相国寺の境内に古い狐がすんでいて、夜な夜な現われては宗旦に化け、あちこちの茶会によばれて行き、人々は狐だということを知りながら親しみをもって迎えた、というもの。狐か、宗旦か、わからないなんて、乞食宗旦と囁かれていたことから派生した伝説らしいのですが、それほど彼が有名だったからみたい。('03.07.27)
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